重度知的障害・自閉症の娘が23歳になりました。将来が見えなくて泣いていた、あの頃の私へ
発語のない、重度知的障害と自閉症の娘がいます。
名前は、みーちゃん。今年、23歳になりました。
この記事は、お子さんの診断を受けたばかりで、将来が見えなくて眠れない夜を過ごしているお父さん・お母さんに向けて書きます。
そして同時に、娘が自閉症と診断された21年前の私に宛てた手紙でもあります。
答えはありません。私もまだ、悩みだらけです。
でも、「この道の先で、ちゃんと暮らしている親子がいる」ということだけは、お見せできます。
いちばん怖かったのは、「何も見えない」ことでした
診断を受けた頃の気持ちを、正直に書きます。
怖かったのは、障害そのものではありませんでした。
これからどうしたらいいのか。何をすればいいのか。何も見えない将来が、怖かった。
当時、頭の中にあった言葉は、たったこれだけです。
「これからどうしよう」
「この子を育てて、生きていけるのかな」
問いの形にもなっていない、ただの叫びでした。
考えようにも、考えるための材料すら、持っていなかったのです。
今ならわかります。あのとき私が怖かったものの正体は、「大人になったみーちゃん」が、まったく想像できなかったことです。
人は、想像できるものには備えられます。
想像すらできないものは、ただ怖がることしかできないのです。
最初に道を照らしてくれたのは、「人」でした
真っ暗な中で、最初の一歩を照らしてくれたのは、制度でも本でもありませんでした。
親子教室を勧めてくれた、保健師さん。
親子教室の、先生。
そして、親子教室で知り合った、お母さんたちです。
正直に書くと、親子教室でのみーちゃんは、一番多動で、泣いてばかりで、他の子より大変でした。
「障害のある子の集まりの中でさえ、うちの子が一番大変」
そう感じて、落ち込んだことを覚えています。同じ気持ちになったことがある方、いませんか。
でも、通ううちに気づいたことがあります。
親子教室に来る子どもたちは、それぞれの大変さを持っていました。形は違っても、みんな何かを抱えていた。
だから、同じ重さじゃなくても、気持ちは理解し合えたのです。
「わかるよ」と言ってもらえる場所がある。それだけで、あの頃の私はずいぶん救われました。
もしいま、ひとりで抱えている方がいたら。
保健師さんでも、親子教室でも、支援センターでもいい。「人のいる場所」に、一度だけつながってみてほしいです。
想像できなかった「大人のみーちゃん」の、いまの1日
そして、ここからが、あの頃の私に一番見せたかったものです。
23歳になったみーちゃんの、ふつうの1日。
平日
- 7時半に起きる
- 10時前に、生活介護事業所の送迎が迎えに来る
- 日中は事業所で過ごし、16時前に帰宅
- 帰ってきたら、スマホで動画鑑賞
- 暇そうにしていたら、散歩やドライブへ
- 夕食のあとも、スマホで動画
- お風呂に入って、23時頃に就寝
月曜と金曜
ショートステイを利用しています。事業所までショートステイの送迎が迎えに来てくれるので、この2日間、みーちゃんは家に帰りません。
つまり私は、週に2日、丸一日動ける日があります。
週末
家族と過ごします。
——以上です。
劇的なことは、何もありません。
でも、診断の日に泣いていた私が見たら、腰を抜かすと思います。
何も見えなかった「大人になったみーちゃん」は、朝起きて、通所して、好きな動画を観て、ドライブして、眠る。
ちゃんと、暮らしているのです。
しかも、母である私が週2日自分の時間を持てる形で。あの頃の私には、ここまで想像しろという方が無理でした。
不安は「解決」したのではなく、「形が変わった」
正直に書きます。不安が、きれいに解決したわけではありません。
あの頃の「ただの叫び」は、みーちゃんの成長とともに、少しずつ「問い」の形になっていきました。
学校があるうちは、学校。卒業したら、作業所。そこまで見えるようになった頃、その先の問いが、順番にやってきたのです。
「お金はどうなるの?」は、知ることで軽くなりました。障害年金、福祉サービス、手当。当時の私は制度の名前すら知りませんでしたが、調べて、申請して、使ってきました。
ひとつ、例を書きます。
みーちゃんが小学生の頃、地域の障がい児のお母さんたちの集まりで、「障害年金だけでは、施設に入ると赤字になる」と聞きました。私はその話を、20年近く抱えてきました。
最近、ちゃんと調べました。
結論は、重度の人が利用する入所施設には「補足給付」という国の補助があり(住民税非課税など、低所得の方が対象です)、食費・光熱水費を払っても手元にお金が残るように設計されている——つまり、制度上は赤字にならない仕組みになっていました(グループホームの場合は地域や家賃によって足りないこともあります。このお金の話は、別の記事でくわしく書く予定です)。
20年抱えた不安が、調べたら、答えのある不安でした。
お金の不安は消えませんが、「何も知らない不安」と「仕組みを知った上での心配」は、重さがまったく違います。
「私はこのまま年を取るの?」——これは、半分当たって、半分外れました。たしかに私は、みーちゃんのケアを続けたまま年を取っています。でも「今の大変さのまま」ではありませんでした。大変さの中身は、みーちゃんの成長と、使える制度と、私自身の慣れで、少しずつ入れ替わってきました。
そして、母の介護も加わって、悩みは今も現在進行形です。
それでも断言できることがひとつあります。
あの頃ぼんやりと怖れていた「真っ暗な将来」は、来ませんでした。
来たのは、大変だけれど、笑う日もちゃんとある、ふつうの暮らしでした。
そして、いちばん重い問いは、みーちゃんが成人した頃にやってきました。
「いつ、親元を離れるのか」
この問いについては、答えの代わりに「下書き」ができたので、次の章で書きます。
「いつ親元を離れるのか」に、私が描いている下書き
自閉症と診断された21年前は、この問いを考えることすら、できませんでした。
あったのは、「これからどうしよう」という、漠然とした不安だけ。
この問いがはっきり形になったのは、みーちゃんが成人した頃です。
漠然とした不安が、考えられる「問い」になる。それ自体が、歩みの途中だったのだと思います。
今の私は、こんな下書きを持っています。
第1段階: みーちゃんの入浴介助が、私の体に辛くなってきたら。入浴介助はヘルパーさんにお願いする。
第2段階: 散歩の同行や、身の回りの世話そのものが体力的に辛くなったら。そのときは、施設。
時期は、漠然とですが、私が70歳くらいかな?と予想しています。
ただ、ここで大事なことがひとつ。
その歳になってから探し始めても、みーちゃんが安心して暮らせる施設に巡り会える可能性は、低い。
だから今から、少しずつアンテナを張って、情報収集をしています。
そして決めていることがあります。「これだ!」と思える場所が見つかったら、そのときは予定より早くても、入れる覚悟をすること。
正直な気持ちを書くと、私はまだ、みーちゃんと一緒に住みたいです。
でも。
私がこの世からいなくなった日に、みーちゃんが「安心しておまかせできる場所」で暮らしていること。
それが、みーちゃんにとって一番いいことだと思うのです。
それに、施設に入っても、週末には帰ってきてくれます。まったく会えなくなるわけではありません。
ショートステイで週に2泊、みーちゃんは私のいない場所で眠れるようになりました。月曜と金曜は、その下書きを少しずつなぞる練習なのかもしれません。
ちなみに、みーちゃんのショートステイデビューは21歳でした。
みーちゃんの世代だと、早い子は高校生から利用していて、平均は高校を卒業して作業所に通い出した頃。それに比べると、かなり遅いデビューです。
それでも、23歳の今。週2回のショートステイを、楽しく過ごせています。
だから、始める時期は、よその子と比べなくて大丈夫です。
その子と、その親の準備ができたときが、その家のスタートです。
あの頃の私が聞いたら、驚くと思います。
「いつ離れるの?」という、あんなに怖かった問いに、泣かずに下書きを描ける日が来るなんて。
よかてんのひとりごと
最後に、21年前の私へ。
あなたが怖がっている「見えない将来」を、先に歩いてきました。
全部は見えないままです。ごめんね、21年たっても、地図は手に入りませんでした。
でも、わかったことがあります。
道は、一歩先だけ照らされれば、歩けます。
保健師さんが、先生が、同じ教室のお母さんたちが、制度が、そしてみーちゃん自身が、その都度、一歩先だけ照らしてくれました。
あの泣いてばかりだった子は、いま、自分のスマホで好きな動画を選んで観ています。
ドライブに行けば、機嫌のいい顔をします。
だから、全部見ようとしなくていい。
今夜は寝て、明日、一歩だけ進めば大丈夫です。
21年後より。
関連記事
▶ 発語なしの娘みーちゃん、23歳の今。言葉はなくても伝わっていること、難しいこと